2008年11月04日
絶望 断念 福音 映画 を読み返しながら
今宮台先生の映画を通して考える「実存」分析系の本を読み返している。
〈世界〉はそもそもデタラメである ―再び「砕け散った瓦礫」へ
が新しくでるからだら。
僕は宮台先生の映画評論の文が一番好き。
社会、政治、経済、思想、メディア、IT系への分析へ移行したかに見える
先生の「断念」の記憶がまだ見れるから。
僕は海外研修を目指し日々勉強をしているが、正直、海外研修に選ばれようが、選ばれなかろうが、僕の人生の生き方に変わりはない。
今の仕事自体に英語などほとんど必要ないし、(高度なという意味で)自分が30過ぎて英語ができるくらいで、何か人生が変わるとは思っていない。
もっと言えば海外に行こうが、行かなかろうが人間の深みには関係ないと思っている。
海外に行った経験が多かろうが、少なかろうが馬鹿は馬鹿。
学ばない奴は、学ばない。
学んだ気だけの奴は、永遠に学んだ気になる。
もっと言えば仮に自分が今の会社で「何かの間違え」出世したとしても
自分の人生観は変わらない。私は社会に「絶望」しているから。
社会の中の出来事ののみに関心があり、その外には関心がゼロ。
特に日本はひどい。
自分の会社やら、学校のみに関心があり、それ以外の価値観には関心ゼロ。
うちの会社は海外にも支店があるが、日本の会社の支店なので、海外の人には余り関心がないらしい。
だから海外研修に行っても、外国や、外国人に関心があるわけではなく、
単なるキャリアを積むか、暇つぶし。
僕はこの二年、海外研修に行くために必死で英語の勉強をしている。
しかしそれは会社のためではない。
明らかに自分のためだ。
もちろん会社の仕事をおろそかにする気はない。
僕は仕事は速いし、会社の利益を一番に考え仕事はする。
自分の生活費を稼ぐための合理的努力は人一倍する気だ。
しかしそれが僕の人生の一番の動機ではない。
僕は単に社会の中で、社会の基準に沿い利益を最大化する生き方に何の興味も無い。
すなわち、自分の利益を最大化することに関心などない。
しかしそのようなことばかりいっていると、「馬鹿」に操られてしまう。
それだけは本当に「ごめんだ」
くだらない会議、くだらない制限、くだらない人間関係に時間を費やしている暇は無い。
僕の中では「絶望」こそが「基本」だ。
人は分かりあえるとか、友達は大事!とかそんな眠たいことはどうでもいい。
そんなの当たり前だし、分かり合えない人間関係もあるし、離れていく友達もいる。
そもそも人間は、本気でぶつかればほとんどの場合「わかりあい」など不可能。と思っている。
このような話をすると「可哀想」とか「辛い人生を歩んできたんだね」とか半端な同情を引き起こしたりすることもあるが、的外れ。
僕は、全く自分が可哀想でもないし、辛い人生も歩んでいない。
客観的に「辛い人生」があるのではなく、いかなる状況でも真面目に考えたかが大事。
辛い人生が無い人間でも、真面目に社会をみて考えていれば、深い思考をする。
絶望はそんなところにはない。
絶望とは、家族であろうが、友人であろうが、分かりあうとか、友情とか、愛とか、そんな言葉で「定義」できるものなど無いことを知ることだ。別に「絶望」が悪いことではない。
少なくとも「愛」やら「友情」やら「家族」やら「成功」に酔っているやつよりはマシ。
絶望とはそのような「浅い」ステレオタイプの「言葉」に酔っている奴を
みると感じることだ。
だから「馬鹿」だと認めている人の方がましだ。
なぜなら、自分では、そのような「高尚な言葉」は設定不可能!と理解しているからだ。
そして僕も同じ。
僕の人生が「くず」なのはあたりまえ。客観的に言えば。
でも主観的にそうではないよ!と言わせたい方々は、人の人生は誰もが
素晴らしい!とほざきたがる。
んなわけないだろう。そういう「馬鹿」は間違えなく、自分の人生は「すばらい」と思っている。
自分の人生に、自分は満足している!とは自分自身のなかで言えばいいこと。
他人に言った瞬間、「醜悪」な臭いをはっする。
あいだみつを とか僕にとっては気持ち悪い「ナルシスト」にしか見えない。
自己肯定は「正しい」と信じている人間は「狂っている」しか僕には思えない。
もちろん過剰な「自己否定」も害だが。
世界は本当はデタラメなんだよ!それを基本に自分を好きなだけ語れ!
〈世界〉はそもそもデタラメである ―再び「砕け散った瓦礫」へ
が新しくでるからだら。
僕は宮台先生の映画評論の文が一番好き。
社会、政治、経済、思想、メディア、IT系への分析へ移行したかに見える
先生の「断念」の記憶がまだ見れるから。
僕は海外研修を目指し日々勉強をしているが、正直、海外研修に選ばれようが、選ばれなかろうが、僕の人生の生き方に変わりはない。
今の仕事自体に英語などほとんど必要ないし、(高度なという意味で)自分が30過ぎて英語ができるくらいで、何か人生が変わるとは思っていない。
もっと言えば海外に行こうが、行かなかろうが人間の深みには関係ないと思っている。
海外に行った経験が多かろうが、少なかろうが馬鹿は馬鹿。
学ばない奴は、学ばない。
学んだ気だけの奴は、永遠に学んだ気になる。
もっと言えば仮に自分が今の会社で「何かの間違え」出世したとしても
自分の人生観は変わらない。私は社会に「絶望」しているから。
社会の中の出来事ののみに関心があり、その外には関心がゼロ。
特に日本はひどい。
自分の会社やら、学校のみに関心があり、それ以外の価値観には関心ゼロ。
うちの会社は海外にも支店があるが、日本の会社の支店なので、海外の人には余り関心がないらしい。
だから海外研修に行っても、外国や、外国人に関心があるわけではなく、
単なるキャリアを積むか、暇つぶし。
僕はこの二年、海外研修に行くために必死で英語の勉強をしている。
しかしそれは会社のためではない。
明らかに自分のためだ。
もちろん会社の仕事をおろそかにする気はない。
僕は仕事は速いし、会社の利益を一番に考え仕事はする。
自分の生活費を稼ぐための合理的努力は人一倍する気だ。
しかしそれが僕の人生の一番の動機ではない。
僕は単に社会の中で、社会の基準に沿い利益を最大化する生き方に何の興味も無い。
すなわち、自分の利益を最大化することに関心などない。
しかしそのようなことばかりいっていると、「馬鹿」に操られてしまう。
それだけは本当に「ごめんだ」
くだらない会議、くだらない制限、くだらない人間関係に時間を費やしている暇は無い。
僕の中では「絶望」こそが「基本」だ。
人は分かりあえるとか、友達は大事!とかそんな眠たいことはどうでもいい。
そんなの当たり前だし、分かり合えない人間関係もあるし、離れていく友達もいる。
そもそも人間は、本気でぶつかればほとんどの場合「わかりあい」など不可能。と思っている。
このような話をすると「可哀想」とか「辛い人生を歩んできたんだね」とか半端な同情を引き起こしたりすることもあるが、的外れ。
僕は、全く自分が可哀想でもないし、辛い人生も歩んでいない。
客観的に「辛い人生」があるのではなく、いかなる状況でも真面目に考えたかが大事。
辛い人生が無い人間でも、真面目に社会をみて考えていれば、深い思考をする。
絶望はそんなところにはない。
絶望とは、家族であろうが、友人であろうが、分かりあうとか、友情とか、愛とか、そんな言葉で「定義」できるものなど無いことを知ることだ。別に「絶望」が悪いことではない。
少なくとも「愛」やら「友情」やら「家族」やら「成功」に酔っているやつよりはマシ。
絶望とはそのような「浅い」ステレオタイプの「言葉」に酔っている奴を
みると感じることだ。
だから「馬鹿」だと認めている人の方がましだ。
なぜなら、自分では、そのような「高尚な言葉」は設定不可能!と理解しているからだ。
そして僕も同じ。
僕の人生が「くず」なのはあたりまえ。客観的に言えば。
でも主観的にそうではないよ!と言わせたい方々は、人の人生は誰もが
素晴らしい!とほざきたがる。
んなわけないだろう。そういう「馬鹿」は間違えなく、自分の人生は「すばらい」と思っている。
自分の人生に、自分は満足している!とは自分自身のなかで言えばいいこと。
他人に言った瞬間、「醜悪」な臭いをはっする。
あいだみつを とか僕にとっては気持ち悪い「ナルシスト」にしか見えない。
自己肯定は「正しい」と信じている人間は「狂っている」しか僕には思えない。
もちろん過剰な「自己否定」も害だが。
世界は本当はデタラメなんだよ!それを基本に自分を好きなだけ語れ!









